黒部丸山東壁-正面壁・緑ルート(途中撤退)
8月12日(土)~14日(月) 前夜発1泊2日 坂本多鶴(記)、玉谷和博
12日 信濃大町駅5:30(タクシー相乗1330円/人)扇沢6:00/7:00(トロリーバス1260円)黒部ダム7:15/30 内蔵助谷出合8:50 緑ルート取付10:00/40 中央バンド15:30<ビバーク>
13日 中央バンド6:30 取付8:00/30 1ルンゼ出合9:00/10:00 黒部ダム12:00(トロリーバス)扇沢12:15/13:30(バス)信濃大町駅<泊>
14日 帰松
黒部丸山東壁は奥鐘山、黒部別山東面とともに黒部の三大岩壁と呼ばれ、険悪な黒部川の谷と同様に、隆起と浸蝕作用による断崖垂壁のスケールの大きな岩場です。その高度差は400mで、当時主流であった埋め込みボルトによって開拓が始まりした。そして、緑ルートは正面壁の初登ルートとして、1965年、星川和男のほか、一匹狼として名を馳せた森田勝、孤高の天才クライマー立田實など大勢の東京緑山岳会の会員によって、総力をあげて開拓されました。
ワクワクしてたのに出発前の天気予報は台風情報もあって今ひとつ。初めての岩場なのでとりあえず見るだけでもという気持ちで出発する。黒部ダムから内蔵助谷への登山道を下るとダムの観光放水の飛沫に虹がかかっている。登山道沿いにしばらく歩き、内蔵助谷出合の先のガレた1ルンゼで登山道と別れ、ヤブの中の踏み跡に導かれると、簡単に正面壁基部にたどりつく。しかし誰もいない。丸山は標高が2000mちょっとで暑いため、夏場は適時期ではないのです。ビルよりもデカイ岩場の前にちっちゃな人間がふたりだけ。
とりあえず登れるとこまで、と1P目坂リードで登攀開始(Ⅲ・A1、40m)、フリーの部分は濡れていたり草が生えていていやらしく、ⅢではなくてⅣ以上はありそうだ。草付を越えたテラスでビレイ。2P目は玉(A1・Ⅲ、35m)をフェースから草付混じり。3P目は坂(A1、30m)で、三日月ハングの下までの人工登攀。アブミの最上段では届かないボルトも出てきて、リストループに乗る。ここはアブミビレイ。4P目は玉で三日月ハング越え(A1、15m)。ハングの張り出し1m。ボルト間隔は短いけれど、お互いにハングはまだ慣れていないなぁという感じで越える。ここもアブミビレイ。
5P目は坂(A1、20m)、アブミビレイで足腰が痛かったので、足のおけるレッジで切らせてもらう。6P目は玉(A1、35m)、ここもボルトが時々遠い、でもボルトラダー。7P目は坂(A1、25m)、1箇所ハンマーをボルトにひっかけて身体を引き上げクリップ。トラバース手前でビレイ。8P目は玉(A1・Ⅲ、40m)。右にトラバースして小ハングとフェースを越え、草付き帯に突入。薄暗くなって少々ポツポツしてきたので心細くなるピッチであった。
ついた所は中央バンド、ほとんど飲まず食わずだったし、後半はザックを下ろせるテラスもなかったので、かなりクタクタ。「もう2日間登っている感じだよ」。やっと水をゴクゴク飲む。頭上に続く大ハングを見ながら、「どうする?」。次のピッチから大ハング越えが始まるのだが、見上げるとおよそ5m張り出し、グレードでA2(人工登攀で支点動作のどちらかが不確実)。「我々に越えられるのかなぁ」。天気予報では台風の影響で明日の午後から雨。残りの水も足りなさそう。ほとんどアブミに乗っていたので足が痛い。
翌朝、懸垂下降で登ってきたルートを降りることにする。1ピッチ目は草付き15mでテラス。次のピッチは30m下降して2mほどトラバース、ボルトに足先をひっかけてアブミビレイの支点までたどり着く。3ピッチ目は20m下のレッジまで。4ピッチ目は三日月ハングを越えて40m下のテラスまで。そして最終ピッチ40mで取り付きへ戻った。アブミビレイ支点からの懸垂下降は初めてだったが、結構恐かった。壁は垂直なのでわざわざロープダウンしなくても、自然にスルスルと落ちてくれたが、万が一ロープがすっぽ抜けるとアウト、人間が2人残置状態となってしまう。また、小さなミスでも死につながる。
という訳で緑ルートの完登は出来なかったのですが、人工登攀を模索中の我々にとっては勉強になるルートでした。帰ってからアメリカの人工登攀のビデオを買ったけど、日本人に比べてかなり慎重で参考になった。ただ、ボルトラダーでの足の痛さは靴を変えるかビレイシート(日本では販売してないそうだ)を使うしかなさそう。9月連休に再挑戦の予定。
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