「雪と岩へのあこがれ」 労山会長・吉尾弘
このあいだ、盛岡山友会の10周年で岩手に行ってきた。右手の指にテープを巻いての行動だから骨折後のこと、96年の9月の中旬である。森君や玉谷和博君や坂本多鶴ちゃんらはパートナーなので来てくれて当然だとしても、金田先輩や久保さん、三枝さん、喜島さんらの見舞いをいただいたのには恐縮した。多鶴ちゃんには「山でのケガでしたら口どめ料が大変だったですね」と言われたが、考えてみたら僕の性格から言ってそのとおりだ。
もう何十年も昔のことになる。谷川岳のマチガ沢で春に雪上技術の講習をしていた。労山の草創の頃でリーダークラスが少なく、技術的な中核を育てようと毎年行っていた。その頃の一人に、仙台に行き山友会の第二代会長になる扇君がいた。山友会は松戸と似て、質量ともに10年で「具体的に登山を継承し発展させる組織となった」。扇君が転勤にともない入会したというので、その頃から関心をもっていた会だった。扇君は今でも現役のクライマー、何年か前も冬の一の倉で会っている。東北では伝説的存在で未踏の域に達した一人である。
その頃の人では、通りかかると必ず寄ってくれた人に、現荒川山の会の小松猛さんがいる。氏は講習に参加するには少しレベルが高すぎたので、アドバイザー的な存在。そんな時は講師が二人になった。小松ちゃんは、昔、クライミング・ジャーナルという雑誌に「吉尾弘の世俗的なおろかさは知る人ぞ知るところである」と書いたのを最近見たので、僕もこの機会に真実を書いてしまうと、谷川岳でのあるとき、小松ちゃんは足首のネンザをして歩けなくなった。僕はその小松ちゃんを肩ぐるまして、雪の斜面の部分は全部降ろしたのであった。
他に誰がいたかと考えると、船橋山の会の石井氏の後輩の故小形君や尾崎君たちの他は、ほとんど忘れている。そんなある年の講習会でのこと、僕は自分のピッケルで内股を刺してしまった。血がズボンの下を流れるのがわかるほどだったが、ついに参加者に気づかせることはなかった。
話が本来書こうとした目標から大分はずれてしまった。今回ケガをしたことだが、昔、力のあるときなら支えられた重量だったのだ。ところが支えきれず指をはさんでしまった。巨人軍の落合博満さんもデットボールで指の骨折をしたが、骨というのは6週間ほどでくっつくそうだ。ところが僕の場合は、すじを損傷した。元にもどるまで3ヶ月かかるという。
人さし指がきかなければ中指と薬指で、とトライしたのだ。ホールドの形状が、つかむのではなく二本の指のかかるものなら、なんとかなる気もした。しかし、その結果はひじ痛となってでてきている。身体ならし程度でしばらく過ごす以外、いけないようだ。
このできるという感覚と身体のギャップ。実はこの差が面白いし、危険でもある。今から3、4年前の56歳のとき、アルプスのドリュのボナッティ・ピラーに行った。2ヵ月ほどいて終わりぎわの登攀だったこともある。その前、マッターホルンの北壁での失敗やモンモディにつきあげるフロンティア・リッジやダンデジュアンなどを登った後で、疲労が蓄積していたと思い込んだが、その登攀ではすごい苦労をした。フリーで越えるハングの出口が抜け切れなかった。パートナーの仙台山岳会の住吉君が全部トップをやってくれた。
僕は登れないのはおかしいと、ずーっと思いながら登っていた。いきついた結論はクライミングはスポーツである。そのためのトレーニングをしなかったら発展しないし、錆びつく一方でしかないということだった。
実は、当然のようなこのことを漠然と心の中では感じてはいたものの、意識の表面には浮かび上がらせることを、僕のメンツが拒んでいたのである。
僕の友達に内田一君という人がいる。20年ほど前に全国労山でネパール側からチョー・オユーを計画したときに、タンポポというハイキングクラブから参加した隊員であった。そのときの隊長は小松猛さん、僕が副隊長をやった。その内田君に静岡県連の登山学校で久しぶりに会った。彼は翌日の岩登り実技で僕よりもレベルが上だったのである。彼はチョー・オユーの5年ほどあとから岩登りに取り組み、グランドジョラスの北壁を登っている。
静岡というところはゲレンデが豊富で、フリーの実力をもった人が多く層もあつい。労山でも北海道と双壁と思う。彼は僕よりひとまわり年下なのだが、僕よりうまくなるなどということは、あってはいけないことなので腹を立てた。今にみてろ、そのうち感心させてやるからな、と思いながら一年ほど過ぎてしまった。
あるとき、船橋にロッキーという屋内壁ができたので行ってみた。会員番号は667番。最初は初級の壁が登れなかった。登れないことはなかったのだが、デッドポイント(この言葉の意味を知ることはとても大切なことです。この文を読まれた会員は、ぜひ多鶴ちゃんや玉ちゃんに聞いて、意味を知って下さい)で登っていた。デッドポイントを回避するバランスを体得してから僕の岩登りが変わった。この頃の先生は船橋山の会の末吉君。彼とその冬、八ヶ岳の西壁に行った。自分でもアイゼンクライミングが洗練されてきたと、自覚された。バランスが楽になったのである。金田さんなどと一緒だった朝霧山岳会の頃と比べても一歩前進している。
僕の若いときは戦争による断絶で冬期登攀などは先輩から教わることができなかった。一例をあげると、社会人山岳会でも烏帽子奥壁を初登攀した登歩渓流会の川上晃良さんたちや戦死された昭和山岳会の小林隆康さん(烏帽子奥壁第2登)ら、すごい人たちが何人もいたのだが、戦前の域には回復しなかった。僕はかつて空白と書いたが、第2次世界大戦は登山の空白を作ったのではなく、継承と発展を断絶させたのである。登山内容からみると、日本の登山界が戦前の質を越えたのは、第2次RCCのできた1958年の前年あたりかと思われる。僕の「垂直に挑む」という文庫本が、丁度そのあたりの時代背景の登攀記となろうか。
僕とか金田先輩たちが岩登りをやるためには、前夜発で三ツ峠の駅からダルマ石を登り、三ツ峠の岩場に取りついた。土曜日の夜行を使い、最高に行ったときで月に5度ほどしかトレーニングはできなかった。今でこそ体操の域に近づいてはいるが、しょせん自然の岩場で技をみがく段階ではアマチュアの域を出られなかったのである。
昔、面や小手を用いた北辰一刀流が警視庁に採用され、日本での剣道となった。木刀や真剣で形や寸止めをするのではなく、実際に打ち込める。このことが短期間でどれほど技を向上させたか。インドア・クライミングというのはこれと変わらないところがある。
今だったら僕はドリュのボナッティ・ピラーを楽に登れる。あのときは正対のフォームでこまかいホールドを使い、かぶり気味のところを越えようとしていた。向上心が無くなったとき、心も身体も錆びついてしまうのが分かっていながら、鍛えようとしない時期があまりにも長かった。岩登りに限らず、生きているあいだに、少しだけ苦労してみようかな-などと思う気持ちが自分のなかにでてきたことが、実は登山と山を想う心の生み出した成果でもあるのか、と思うこのごろである。