<山行報告書>憧れの丸東緑ルート、リベンジ!
9/22~24 北アルプス 黒部丸山東壁正面壁 緑ルート
メンバー:L.玉谷和博(記)、SL坂本多鶴
去年の8月13日、僕らは圧倒的に覆いかぶさるような大ハングを中央バンドから呆然と見上げながらゲンナリしていた。「あんなの、登れっこないじゃないか…。」ペットボトルの残りわずかな水を大事に舐めながら--。『くやしい』とか、そんなんじゃなくて、その迫力にただ打ちのめされてシッポを巻いて下降していくしかなかった。
あれから1年。丸山東壁緑ルートへの想いはつのる一方だ。ルート写真集はもちろんのこと、“緑”(※東京緑山岳会のこと)と名が付けば何でも気になって読みあさった。僕は丸山東壁に、緑ルートに、恋をしてしまったようだ。登りたい…。登りたい…。
9/21(金) 松戸駅22:00=(JR)新宿駅23:50=(JR)
9/22(土) 信濃大町駅5:10/5:20=(タクシー)扇沢5:40/8:00=(トロリーバス)黒部ダム8:15/8:20 一ルンゼ出合9:45/9:55 緑ルート取付点10:10/11:00 ~黒部丸山東壁緑ルート~ ホテル丸山17:20 雨のち晴[ツェルトビバーク]
「懲りずに、再び緑ルートへやってきました。」
はやる気持ちをはぐらかすように扇沢には冷たい雨が降っていた。室堂はマイナス2℃だとか言ってる。雨が止むのを待って、8時にトロリーバスに乗り込む。黒部ダムから外に飛び出すと、雲の切れ間から青空が掻き分けるようにぐんぐんと広がっていた。あまりにも気持ちのいい朝。天気予報ではこの3連休は全国的に文句なしの快晴マークである。遅れを取り戻そうと、足早に黒部川を丸山東壁へと急ぐ。約1時間半のアルバイトで第一ルンゼの押し出しへ。正面壁は、半円状にグッとそびえ立つ独特な風貌で、幅100m高度差400mと黒部丸山の岩壁のなかで最もスケールが大きく目立っている。出合にはテントが1張り。クライマー2~3パーティーが出発の準備をしていた。
1ルンゼをしばらく登り、右手のブッシュの中を抜けるとまもなく正面壁の基部に出る。緑ルートの取付点はやや右寄りの浅い凹角だ。先行のYCC(ヤングクライマーズクラブ)パーティーが出発するのを待って、11時に僕らもいよいよ登攀を開始する。中央バンドまでは去年登っているし、先行パーティーがいるというだけで今日は気持ちテキにはラクちんだ。「去年とは逆のピッチをお互いリードしよう。」ということで、1ピッチ目は玉リードから。(Ⅴ-、A1)急峻な浅い凹状フェースを10mほどフリーでいくが、所々濡れていたり草がついていたりしてなかなかイヤラしい。その後ボルトを追ってアブミを掛け替えながらいったん右に大きく回り込んでから、左のバンド状テラスへトラバースして、40mいっぱいにザイルをのばす。
2ピッチ目 (35m、A1・Ⅲ)は鶴リード。フェースをA1のアブミの掛け替えでいく。つづく3ピッチ目は右側から、ボルト連打のA1でスラブを直上。「ボルト連打」といっても、たまにはアブミの最上段に立つこともあって背の低い女性にはちと厳しいかも。支点の状態などルート全般に関して言えば、三ツ峠の中央フェース(逆V字ハングあたり)に似ていると思った。縦リスにおじぎをしている古いハーケンや腐った細いシュリンゲもあるけど、おおむね残置支点はわりとしっかりしている(ように見える。)リングボルトが多いし、岩は堅く安定している。一ノ倉沢衝立岩とは雲泥の差である。これが「快適な人工登攀」っていう奴か。このピッチは30mザイルをのばして、三日月ハングの下でお約束のハンギングビレイ(アブミビレイ)となる。
4ピッチ目は鶴リードで、オーバーハングを乗っ越してスラブを35m、 A1で狭いレッジまで。(ハングのすぐ上にビレイ点があるが、そこはパスした方がいい。)三日月ハングの張り出しは約1.5m。「(ハンギングビレイはつらいから)サクッと登っちゃってください!」と言うと、「わたし、今回調子悪りぃ~。」だなんて言いながら、意外なほどあっさりと越えてった。高度感がすごくて、ボーッとしてると黒部川まで吸い込まれそう。
つづく5ピッチ目は、快適なA1のアブミの掛け替えでぐいぐいと35m直上。上部岩壁には先行パーティーがもう大ハング帯に取り付いているのが見える。(うわぁ~、、、)
6ピッチ目は、さらに直上したあと右ヘトラバースし、小ハングを越えてがくっと傾斜の落ちた草付までA1で30m。あとはブッシュ混じりを15m・Ⅲ、1ピッチで中央バンドに到着。と、入れ違いに先行パーティが懸垂で下降していった。
17時20分。予定通り「ホテル丸山」と呼ばれる快適な洞穴でビバークする。目の前には赤沢岳の鋭い尾根「猫の耳」が。それから遠くにはもうオレンジに秋色の稜線が見えている。今夜はかなりの冷え込みを覚悟していたけど、たいしたことなさそうで助かる。この日はビスケットとドライフルーツと少しばかりのジュースを喉に流し込んで早めに寝た。
9/23(日) ホテル丸山7:15 緑ルート8ピッチ目7:25/8:30 大ハングの上12:30 終了点17:20 ビバーク地点17:40 快晴[ツェルトビバーク]
「大ハングは恐怖の空中ブランコ!A2は、どっちだ?」
昨日の夜は、遅く(9時半ころ?)登ってきた残業パーティーに起こされてしまった。訳を聞くと、1ピッチ目でルートを間違えてしまった、とのこと。「ボルトラダー」とはいえルートが交錯しているのかルートファインディングには注意!キジ待ちの為、僕らは後発でいく。中央バンドを30mほど左へ移動して大オーバーハング帯左端直下の垂壁に取り付く。「さて、と。どっち登る?」「う~~ん・・・。」A2デビューの僕らはなかなか積極的には登り出せない。ルート図(山渓の茶本=クラシックルート集)を見ると、8ピッチ目がA2で大ハングの9ピッチ目がA1になっているけど、どう見ても9ピッチ目の方がA2に見える。「さあ、どっちだ、どっち選ぶ?」多鶴ちゃんは、先行パーティーが取付の小ハングで苦労しているのを見て(茶本を信じて)9ピッチ目のリードを選んだ。
ん、な訳で8ピッチ目は玉リード。出だしがカブッているが、その後は垂壁をA1のアブミの掛け替えで30mほどザイルをのばしてビレイ解除!ハンギングビレイで渋滞待ちになる。首が痛くなるほどの見上げる大ハング帯では、先行Pの2人が奮闘中。空中ブランコ状態で「マジかよ…!」とか言ってるのが聞こえてくる。(良かったぁ、リード俺じゃなくって…)8ピッチ目をフォローで登ってきた多鶴ちゃんは、間近に見る大ハングを眺めながら「え゛~っ!!」と、もう涙目である。
いよいよ鶴リードの核心部、9ピッチ目。20m, A2。5mほどA1で登り、ハング下へ。大ハングは3段約5mの張り出しで、ルートは弱点を左上している。岩はとても堅く、支点もわりとしっかりしているので、冷や汗タラタラもんの恐怖感はあまりない。(と、いうか、「残置ピンが抜けるかもしれない…」だなんて少しでも考えてしまったならば、その瞬間から恐怖で体が動かなくなってしまいそうだ。)だけど、今日がA2デビューなので、空中でアブミにうまく移れず、キビシイ。緊張した妙に静かな時間が流れていく。「ハッ…、ハッ…、ハッ…、ッ…」多鶴ちゃんの苦しそうな息づかいだけが静かになった岩場にかすかに聞こえてくる。ハングを半分ほど越えた頃、「腕がもうダメだよ~、降りるから替わってくれぇ。」と、泣きが入る。「もう降ろせないよ!登れ、登れ!」と俺。友情(パートナーシップ)とは、かくも厳しいものなのだ。わ、は、は(笑)それでもジワジワと粘り強く進んでいく。(頑張れ、頑張れ…、登ってしまえ…)と、ビレイする手にも汗を握る。そしてようやくハングを越え、カンテの向こうへ姿が消えてしばらくの沈黙のあと、「ビレイ解除!」のコールが響いた。
次は俺の番だ。中央バンドにはいつのまにか10人以上のクライマーがこちらを見上げている。(俺の一番嫌いな状況じゃないか)まるで見せ物である。高度感がものすごい!高さ300mの恐怖の空中ブランコ…。いくらピンがしっかりしている(ように見える)と言っても、この高さで完全にブラ下がってしまうのはあんまり気分がいいもんじゃない。(10mの高さでも落ちれば一貫の終わりか。)ふと目の前に小さな蜘蛛がいた。糸にぶらさがり、とても上手に登っていった。よし俺も、と思う。秘密兵器フィフィ2本(!)を駆使して必死でハングを抜け、カンテを巻き込んで垂壁をA1で登り、左上の木の生えたレッジまで。さすが姉ぇちゃん、男の中の男だ。調子が悪いとは言いながらも、よくもあんなトコをリードしたもんだ。「あと2ピッチは木登りA1ですよ。」と言って、登攀を終えた先行Pが大ハングを懸垂下降していった。彼らが早いのか、俺らのスピードがまったく遅すぎるのか?
10ピッチ目は玉リード (40m、A1・Ⅲ)で、もろい凹状のあと、小ハングを抜けてテラスへ。緑ルートの最終ピッチは鶴リード(40mA1、Ⅳ)。チムニーあり、木登りあり、垂直のフェース (A1)あり・・・。わりと単調な下部岩壁とは異なり、中央バンドから上の上部岩壁は変化に富んだ“なんでもあり”状態でおもしろい。でも、「俺は岩登りをしに来たんであって、木登りをしに来たんじゃないぞ!」最後は濃い樹林帯のなか、木登りをして終了点に到着する。
「お疲れ!」ハングと木登りでだいぶ疲れてしまった。いつのまにか、もう5時40分だ。今日は水のある所まで下りられる予定だったのに甘い、甘い。懸垂用のシュリンゲが巻かれた大木から、さらに20mくらい上がると広い場所があったので、そこでビバーク。緑ルートを無事登り終えた満足感と、この先のルートの不安と期待を楽しみながら、この日も早々に眠りについた。
9/24(月) ビバーク地点6:00 丸山北峰(2023m)9:20 水場11:00 内蔵助平11:40 一ルンゼ出合12:50 黒部ダム14:45/15:05=(トロリーバス)扇沢15:20/15:30=(タクシー)信濃大町駅15:55/16:17=(JR)秋葉原駅20:20=(JR)上野駅20:33=(JR)松戸駅21:00 快晴
「岳人ならやっぱりピークを踏まなくちゃ。でも、その先に見たものは…?」
やっぱり誰もこない。「ほとんどのパーティーが終了点か、大ハングを抜けたあとに同ルートを懸垂下降する。」とは話に聞いていたけれど、やはり。10パーティー以上いたと思うけど、みんな懸垂とは・・・。俺らは岳人。岳人ならトーゼン、上を目指す。カラ身で、いいトコだけ登って懸垂、だなんて、お手軽な登攀はしないのだ。(空中懸垂が大嫌いだ、という説もあるが…。)
今日も文句なしのピーカンの快晴。雑誌『岳人№626』に載っていた、伊藤達夫さん(京都左京労山)によるルート説明を頼りに、さらにザイルをのばしていく。1ピッチ目は大木の木登りから、一段上の露岩下を左にトラバースして上が開けた所まで30m。2ピッチ目。急でグズグズの凹角を登って、さらに一段上のバンドへ。3ピッチ目は、そこからまた左へ30mほどトラバースしていくと、ビバークのできる岩小舎の前へと出る。4ピッチ目もさらに左に40mほどザイルをのばしていき、ガレガレの東壁ルンゼ側に回り込む。最後の5ピッチ目は、右側の急な樹林のなかを抜けて、大木の生えた樹林帯まで。ザイルを使うのはここまでだ。ようやくギアをザックにしまって、登山靴に履き替えた。
予定よりもかなり時間がかかってしまっていることを気にしつつも、ザイルとともに緊張感も解かれて、ホッとするのもつかの間、お楽しみはまだまだこれからだった。久しぶりにザックの奥から地図とコンパスを取り出して、丸山北峰を目指す。暗い樹林帯のなか、薄い踏み跡をたどってひたすら登っていく。露岩はおおむね左から巻き、しだいに濃くなっていくブッシュを掻き分けながら進む。ペットボトルの水も残りわずか。昨日からほとんどまともに食べていないし、喉の渇きと疲労でもうホキホキ!途中、群生するクロマメの実(ブルーベリーの一種)を夢中で集めて食べた。ちょっとニガイけど、ありがたい。フィックスロープのある10mほどの露岩を越えると、しだいに傾斜が落ちていき、やがて丸山の北峰(2023m)にフラつきながら到着。
内蔵助平への下降点は、北峰と丸山本峰との間のコル。稜線上は猛烈なヤブだ。疲れた身体はヤブを嫌って、「楽な方へ、楽な方へ・・・」とフラフラとどうしてもヤブの薄い方へ下っていってしまう。このまま下っていっても内蔵助平まで行けるんだろうけど、途中からヤブこぎになってもイヤだし、急な斜面や滝が出て行き詰まってしまうのも恐い。一度は現在地点を見失ってしまい、座り込んで地図とコンパスをにらんで頭を冷やすことにする。(もしかしたら、今日中に下山できないかもしれない…。やばい。)ふと、そんなことが2人の頭をよぎった。落ち着いて眺めると、木々の間から丸山本峰が遠くに見えた。まだ、コルは先だ。疲れた足で登り返すのはキツイけど、もう一度稜線まで戻ることにする。
稜線上を灌木の猛烈なヤブコギでしばらく進んでいくと、右下に「ここからトラバースしろ!」とでも言うように、赤布が2ケ所あり。下りぎみにしばらくトラバースして、大木のある小尾根から西側の明るい沢の源頭部へ、ブッシュをつかみながらさらにトラバースをしていく。真下には内蔵助平が、そして遠くにはゴツゴツと天を突くように剱岳が見えている。早く下りたい気持ちを抑えて慎重にトラバースを続けていると、多鶴ちゃんが偶然にもブッシュの中の沢芯に踏跡を発見!(やるなぁ!おぬし。)その不思議な沢芯の道(?)は特に危険な箇所も、懸垂下降もなく、内蔵助平の登山道までまっすぐにのびていた。まるで誰かがわざわざ作ってくれた登山道のように、実に快適に…。途中、2/3ほど下ったころに右側から合流する小さな沢のチョロチョロと流れる水場に出た時には、全身から緊張感が抜けて、たまっていた疲れが一気に吹き飛んでいった。ゴクッ、ゴクッ、ゴクッと喉を鳴らしながら、冷たい沢の水を1.5リットルは飲んだかもしれない。そのあと息を吹き返した僕らは、内倉助谷を通って、黒部ダムへの登山道を足早に帰っていった。
日本で最初に埋め込みボルトが使われたのは1958年6月、谷川一ノ倉沢のコップ状岩壁。雲表倶楽部の松本龍雄らと、東京緑山岳会の大野栄三郎、山本勉パーティーによって成された登攀は、日本登攀史上のエポックメイキングな事件になった。いかにも絶望的だった一枚岩の岩壁にも登攀の可能性がある…。東京雲稜会の南博人らは1959年の4月に穂高屏風岩東壁の雲稜ルートを、そして同8月には一ノ倉沢衝立岩正面壁に雲稜ルートを拓く。1962年には緑山岳会も森田勝、青木敏パーティが穂高屏風岩東壁青白ハング緑ルートを開拓している。
黒部の大岩壁群がクライマーに注目され始めたのは、1963年のアルペンルート(大町ルート)の開通のころからである。この黒部丸山東壁緑ルートは、1965年7月、星川和男、野崎正矩らをはじめ、立田實、森田勝など大勢の東京緑山岳会の会員によって会の総力をあげて開拓された。実動日数12日、合宿期間34日、参加人数70名。20名の映画撮影隊。徹底した物量作戦は大時代的で決してスマートとはいえないが、いかにもお祭り好きの下町っ子らしく、派手に開拓は進められた。それまでに日本登山用具研究会など試登する者はあったが、「黒部の巨人」とも呼ばれる、丸山東壁のド真ん中に、イの一番に見事に引かれたラインであり、今でもその登攀価値は変わらずに大人気ルートになっている。
マイアルビニズム的に言えば、今回初めてA2の世界へ入ってきたわけですが、やはり難しくって何せ時間がかかりすぎ!「論外っ!」と言われそうだ。2ビバークもしてしまうなんて、僕らぐらい?まあ、そのぶん「丸東緑ルートをじっくり堪能してきたのです。」とも言えるけど、やっぱり言い訳にしか聞こえない。11月は三ツ峠でみっちりとトレーニングだ。
それと、ルート終了点からさらに丸山北峰へ抜けたことが、この山行を充実させて面白かった。僕らまつど岳人倶楽部の登山は、これだと思う。単にグレードを追っていくだけのお手軽なクライミングはしたくないし、そんなクライミングはどこか「空虚」に思えるのです。僕はやっぱり、トータルな意味での山登りがしていたい。でっかい自然とガップリ四つに組むようなアルパインクライミングが・・・。
『ド~ッ!と疲れた。もうヘロヘロ。A2のハングは難しい。喉が乾いて死にそうだった。ヤブの中ではルートに迷ってヤバかった、だけど・・・。ついに念願の丸東緑ルートを登った。しかも上に抜けて丸山北峰、内蔵助平を経由したのが特にうれしい。感動、感激そして放心。黒部丸山東壁は良かった!緑ルートは素晴らしいルートだった。充実した山行だった。今までの夏の登攀では、No.1だと思う。今は布団の上でゆっくり寝たい。』というのが、山行から帰った直後の感想。だけども、その満たされた心もそう長くは続かないってことも僕らは知っている。ほら、またザラザラとしたあのなんとも不快なアルパインクライミングの世界へ行きたくてうずうずしてきた。未知のものへの憧れ。そして、次の冒険へ…。それがマイ・アルピニズム。
<特記事項>
- 中央バンドの岩小舎「ホテル丸山」は、3~4人がビバーク可能。緑ルートの終了点から少し上に、ビバーク可能。その3ピッチ上に岩小舎もある。ただし、水はないので充分に補給すること。
- 空身で日帰りするパーティーや、「ホテル丸山」に荷物をデポして上部岩壁を往復するパーティーが多い。
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