1985/私家版
1983年10月8日。生と死を分けた運命のその日、エベレスト山頂でいったい何が起こったのか…。日本人として初めて世界最高峰の無酸素登頂に挑んだトップクライマー吉野寛とその壮絶な最後については、『精鋭たちの挽歌』長尾三郎(1989/山と渓谷社)と『ボクのザイル仲間たち』小西政継(1987/山と渓谷社)に詳しい。東京雲稜会を経て登攀クラブ蒼氷の創立代表へ。会の若手を率いて国内では冬壁の継続登攀を精力的に行ない 力を蓄えたあと、ヨーロッパアルプス、さらにはヒマラヤへと舞台を広げていった。78年にダウラギリⅠ峰南ピラー(新ルート)初登攀。81年にはプライベートな登山隊の隊長としてアンナプルナⅠ峰南壁を新ルートから初登攀する。翌年にはK2(チョゴリ)北稜を無酸素で登頂。しかし、83年にイエティ同人隊4人のリーダーとしてエベレスト無酸素登頂に挑んだが、同時にアタックした山学同志会の2名と前後して頂上に立ったあと、下降中にビバーク。翌日、氏と禿博信は滑落死してしまう…。
「8000mの高峰を酸素を吸うことによってその高さを1/3の3000mにしてしまうならば、暇と金をかけてわざわざ8000m峰に登ることはない。無酸素だからシェルパを使わないのだから、当然苦しいけれど自分たちの力だけで登るということに意味がある。」仲間だけの なるたけ小さなパーティーで、しかも無酸素で。そう、まるで日本の冬壁やヨーロッパアルプスの岩壁でも登るようにシンプルなスタイルでヒマラヤの大岩壁を駆けめぐること。それが氏の夢だった。未知への冒険・不可能といわれる記録への限りない挑戦は、トップアスリートの特権であり目標だ。しかしそれにしても、あつ子夫人への手紙に添えた「人生とは自分のめざす生き方を実践していくための命がけの闘いである。」というオルティガ・イ・ガセットの言葉はとても印象的で、氏のような人が語ると(僕のような怠惰な凡クライマーには)心にグサリとくる。
「一度は登っておけばあとは好きな山へ行けますからね。」氏の本命のターゲットは、次のローツェ南壁であったらしい。しかしやはり世界最高峰の無酸素登頂というのは、(ただの通過点だったとしても)どうしても片付けておかなければならない大きな壁だったのだろうか。
本書は、亡き夫への追慕の気持ちを込めて、また、父を見ることなく生れてきた娘のために、あつ子夫人が編んだ吉野寛の追悼集である。内容は、「エベレスト日記/雲稜から/蒼氷へ/ダウラからアンナへ/ローツェに向かって/友へ/遥へ」の7章からなり、多くの山仲間の追悼文・山行報告文・遺稿・そして、遠征先から夫人に宛てたたくさんの手紙などで構成されていている。トップクライマー吉野寛のすべて、なにより人間・吉野寛の魅力が存分に伝わってくる素晴らしい追悼集になっている。
吉野寛のほかにも加藤保男(JECC)、竹中昇(早大/黒部の衆)、小林利明(鵬翔山岳会)ら日本のトップクライマーがこの数年間で次々とエベレストに消えていった。アルプス三大北壁からヒマラヤの岩壁、8000m無酸素登攀へという先鋭化の流れは、ここにひとまずの結末を迎える。その後はフリークライミング(当時はハードフリーと言っていた)が爆発的な広がりを見せる一方で、海外の山へも気軽に行ける時代になり、先鋭クライマーの関心はヨセミテでビッグウォールを経験してから辺境の大岩壁へ、という流れにシフトしていくことになる。
PS1;写真右はイエティ同人が1984年に発行した報告書で、2人の追悼も兼ねたものになっている。8800mを越える、いわゆる“死の地帯”に無酸素で(ロープも、ビバーク装備も、サポートもなしで)挑むとはどういうことなのか。遠藤晴行氏によるリアルな描写の報告文は、それが直に伝わってきて非常に迫力がある。(この貴重な報告書は、無理を言って雨宮さんよりいただいたものです。ありがとうございました。)
PS2;写真下は、原真氏が発行する小冊子『アナヴァン』№5の禿博信追悼号(昭59/原病院)。「生還者に聞く エベレスト無酸素登山」と題して遠藤晴行氏が質問に答えていくという形の報告は、迫真のドキュメントとして読み応えがあります。
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