昭和59/非売品
ここに1冊の古い小冊子がある。長いこと探していた本だが、ようやく手に入れたとても貴重なものだ。昭和59年5月1日発行。A5版 95ページ。
単独行(ソロ)といえば植村直己や長谷川恒男・山野井泰史、古くは松涛明や加藤文太郎を思い浮かべる人は多い。いくつかの初登攀の噂はあるものの、立田實の名は日本の登山史を紐解いても出てこないし、記録も著作も見当たらない。立田實という名を知っている人は、かなりディープだ。
この追悼誌は数枚の写真と、2編の遺稿(昭和32年1月~2月の「厳冬の知床岳」と昭和32年4月の「春の一の倉沢」が載っている。彼の山行報告は生涯でこの2編のみ。)と山歴。緑山岳会員による座談会と追悼文で構成されているが、会長の寺田甲子男さんが著書『谷川岳大バカ野郎の50年』の中で、「膨大な記録を持ったまま立田は病気で倒れて、後で記録を整理する私たちの方が大変だった。大変であったが、そのほとんどの記録は不明のまま。追悼誌も不完全なものでしかなかった…」と書いている。「記録は不明…」会の合宿以外はほとんど単独行。しかも、なぜか彼は死の直前に自らの手で、その膨大な記録と写真を焼き捨ててしまったのだから…。そして謎が残り、立田實は伝説になった。
昭和12年8月19日、東京生れ。家業の酒造問屋「五分利屋」の六男。昭和29年度、第16期生として、弱冠16才で東京緑山岳会に入る。年間に200日以上も山行を送れるという恵まれた環境にあった彼は、単独行に意義を見出して精力的に国内から海外の山々へと駆ける。昭和48年10月に結婚。昭和57年7月13日、肝臓を悪くして下界で没。
45年という短い生涯で5000日も山に登った男。国内の山や岩場を縦横無尽に登ったのち、世界中の山々を駆けた。アコンカグア南壁(緑山岳会隊とソロで2度完登)、パタゴニア、フォークランドから南極付近まで放浪。アラスカのローガン、ヨセミテのエルキャピタン。アイガー北壁、マッターホルン北壁、ドリュ(西壁?)。ナンガパルバットの偵察、アルゼンチン隊に紛れ込んで(シェルパとして)エベレストのサウスコル上まで達して、禁断の地チベットからブータンへ潜入してビルマ、タイへ。さらにソビエト、東ドイツ、ケニア山、キリマンジャロ…。もうこれ以上書き連ねていってもきりがない。しかもほとんどがソロである。
当時の時代背景を考えると、まさか全部を完登しているとは思えないが、渡航先から宛てた手紙や、わずかに残された写真、メモ。そして生前、たまに帰国した氏が会の仲間や夫人にポツリポツリと断片的に語った話を拾い集めたものなどから失われた記録がよみがえってくる。
写真:左から立田實、一人おいて寺田甲子男(昭和40年、黒部丸山東壁初登攀の合宿より)
座談会と追悼文は、立田實という人の人となりが見えてきて楽しい。新人の頃初めてのロク(死体)降ろしで泣いた話。「バカヤロー」が口癖で、荒っぽいのにファンの女の娘が多かった話や、厳格な緑山岳会の中にあって計画書を出さないでも、「あいつだけはいいよ、別格だ。」という話。酒にまつわるエピソードも多くて面白い。行ったことのない国は、オーストラリアとニュージーランドと北朝鮮と台湾だけ。チェコで国境警備隊(実は女)にホールドアップされて、バイクで国境まで送ってもらったあと、3日間暮らした話。エジプトで現地のしつこいガイドとピラミッドの頂上まで競争する賭けに勝って、ホキらかしたあと蹴飛ばした話。シェルパの結婚式に招待されてドブロクみたいなまずい酒を飲んだら、翌日みんな死んでた話など…。海外での数々のエピソードも笑える。
また、同じ時代に山を共有していたクライマーたちの言葉は、氏の実力や横顔をリアルに語ってくれる。
「立田さんか。あの人は凄い!実に凄いひとだ。」 吉尾弘(東京朝霧山岳会)
「『一所懸命挑戦して来い。登れなければそれも良い。だが登山は、どんなことがあっても登れなければ登山ではない。』という氏の言葉を、その後僕は機会がある度に若い人達に伝えてきました。」 雨宮節(東京雲稜会)
「『眠たい時が眠る時、食べたい時が食べる時、行きたい時が行く時だ!』と言って、朝私が目を覚ますと、どこかへ消えていたというようなことが度々ありました。」「『山ほど素晴らしいスポーツはない。常に死と向かい合っている。山は詩になり、歌になり、山に関する書物は数限りなくある。本当に死に繋がるスポーツなんだ。お前は解ってくれるよな…』と、何度も聞かされました。」 加寿子夫人
「恐ろしい後輩。立田君の存在に刮目せざるを得なかった。」「うん、立田実が登ったというのなら本当だろう。誰が何と言おうと俺は信じるね。」 松本龍雄(雲表倶楽部)
「立田さんは凄いよ。俺には真似ができないよ。」 森田勝(第21期生)
「立田は生きた時代が少し早かった。ホントにヤツは天才的だった。別格なんだよ。一流と言われる登山家は多いし、その程度なら僕だって努力すれば追いつける。しかし立田は天才的だった。真似をすると死んじゃうんだよ。」 大野栄三郎(第18期生)
「立田だけは別格。無駄口をたたかず、岩肌に取り付けば敏速果敢、華麗ともいえる登攀スピリッツと技術は、文句なしの一流。夢を実現しておきながら、彼は山行記録の一切を消却してしまったというが、この世への置き土産などいらぬ、というのがシャイな男の作法なのであろうか。実に残念。」 宮本三郎(第16期生)
「私が立田を一番好きだったのは、彼には売名的登山がなかったからだろう。ああいう男こそ本当の山好きで、優秀な山男だと私は思っている。」 寺田甲子男(緑山岳会会長)
「立田實の記録は信憑性がない。マユツバだ。」という人もいるけど、そう言われるのも仕方のないことだとも思う。なにしろ、それを証明できる記録が残っていないのだから。しかし、あの一種異常な初登攀記録の発表競争(?)時代のなかにいて、氏には初登攀はなんの興味もなく、ましてや(たまたまそれが初登攀であっても)登攀記録を公表するなんてことは考えもしなかったに違いない。ただ自分の好きな山を好きな方法で、一人で自由気ままに登ってきただけなのだ。このことは、現在だったら実に当たり前のことと言えるかもしれない。しかし、あの時代だったからこそ僕には立田實という人がとても魅力的に想える。
山本勉さん(第18期生)は、僕と交わしたメールの中で、「立田の実家は大きな酒屋で資産も多かったので小遣いには不自由せず、親兄弟から見れば家の財産を使って勝手放題に世界の山々を歩き回っている放蕩息子だったようです。だから植村直己のようにスポンサーに対して記録を提出する義務もなかったわけです。立田實を評価しているのは吉尾弘君だけでなく、松本龍雄など日本でトップの岳人とされている多くの人が最高の評価をしており、私としては彼とザイルを結んだ数少ない仲間の一人であったことを誇りとしています。」と、話しています。
最後に、昭和40年発行の『山岳サルベージ繁盛記』の中で、寺田甲子男さんが立田實を紹介しているところがあるので併せて紹介します。
わが会と仲間を語る-「緑」20人衆-
立田実 通称 悪田
会に入って来た時中学生。もう十年も前のこと。利尻6回、屋久島5回、知床岳冬期単独1ケ月、日高山系数回と日本の山を隅々まで、現在緑で彼の右に出る者無し。最高記録1年間に270余日の山行をなし~(中略)~初登攀も数指ある。現在会のチーフリーダー。
立田實がホームゲレンデとして何度も通った一ノ倉沢出合いの一番近い場所に『駆ける山々5000日』と刻まれた慰霊碑がある。一ノ倉沢を訪れた時には、こんな風変わりで魅力的な岳人がいたことを思い出したいと思う。
<参考文献>
『駆ける山々5000日-立田實追悼誌-』東京緑山岳会 昭59/非売品
雑誌『クライミングジャーナル 17・18号』 1985/白山書房
『失われた記録-立田實の生涯』いなほ豆本3 遠藤甲太 1986/いなほ書房
『谷川岳大バカ野郎の50年』寺田甲子男 1990/白山書房
『山岳サルベージ繁盛記』寺田甲子男 昭40/朋文堂
『登攀-三十年の歩み』東京緑山岳会 昭44/非売品
『登攀 =№300= 25周年記念号』東京緑山岳会 昭39/非売品
『狼は帰らず-アルピニスト森田勝の生と死』佐瀬稔 昭55/山と渓谷社
『山書散策』河村正之 2001/東京新聞出版局
S40年、丸山東壁の記録を読んで身震いした事を鮮明に憶えています。ヨーシ俺もと奮い立ったものでした。
過去の記録を廃棄した件。よく分かります。実は私がいっとき山に背を向けた時、過去の思い出にすがって生きることだけはしたくないとの思いで、山に関するほとんどの物を廃棄又は欲しい人に譲ってしまい、私の宝物の、甲斐駒のアルバムが一つだけ残りました。ラ・モンターニュやマウンテン等海外に掲載された私の記録を含め、大きな段ボール箱数箱が塵として処分してしまいましたが、今でもその時の判断に悔いはありません。
(実は拙書長い壁‥‥も最近子供たちが何処かから捜してきて読み返したところです。)
立田實氏はその時実に清々しい心境になっていた事だろうと自分に置き換えて推察するのです。生意気な事を言ってスミマセンデシタ。
ところで、今月の23日、NHK総合AM11:30~:55。PM9:30~:55
『おしゃれ工房』に俳優滝田栄氏と一緒に出ますので、爺になった井上進を見てください。Su-でした。
投稿情報: 井上進 | 2009/06/19 20:23
井上進の爺ぶり(?)を拝見しそこなった。24日の今になって出演を知ったもんで。う~んザンネン。再放送はあるのだろか・・・。
投稿情報: 柏瀬祐之 | 2009/06/24 09:57