昭和34/朋文堂
マロリーやシプトン、そしてヒラリーのごとく「山がそこにあるから」といって、僕は登りたくない……。モルゲンターレルのように、また彼の語る水晶採りのお爺さんのように「そこに何かがあり」それを僕は求めていきたいと思う。
冬の岩壁初登攀の黄金期、「スーパーアルピニズム」が高らかに謳われた時代。吉尾弘『垂直に挑む男』(昭38/山と渓谷社)、古川純一『わが岩壁』(昭40/山と渓谷社)、松本龍雄『初登攀行』(昭41/あかね書房)とともに、当時の若いクライマーに強い影響を与えた1冊。いずれも長年読み継がれている個性的な名著だが、なかでも本書はユニーク。初登攀記・遭難記のほかに、散文詩やエッセイ・画文・版画なども多く収録。ここには“芳野満彦”という多才で魅力的な山男の青春が詰まっている。
上田哲農や辻まこと等、プロの画家のものと比べるとけっして上手いとは言えない絵(失礼!)と、けっしてスマートとは言えない語り口…。だけど、一見粗野のようでいてナイーブな感性と、不思議と味のある絵が妙に印象的だ。いかにも不器用な山男が、誰もいない冬の山小屋でトツトツと綴った山日記といった感じで、山の匂いがプンプンする本だ。
『山靴の音』はこれまでに出版社を替え(出版社倒産のため)るたびに、改装・改版・加筆されていて何種類かのバージョンが存在する。
初版(昭34/朋文堂)
ケルン新書(昭38/朋文堂)
山岳名著選集3(昭40/朋文堂)
the mountainsシリーズ 4(昭41/二見書房)
山岳名著シリーズ4(昭47/二見書房)
500部限定本(昭50/四季書館)
50部特装限定本(昭50/四季書館)
『新編 山靴の音』(1981/中公文庫.2002/中公文庫BIBLIO
…他にもまだあるかもしれないが、山の本でこれだけたくさんのバージョンがあるのも珍しく、それだけ愛読者が多いことがうかがえる。
僕の本棚には今、3冊の『山靴の音』がある。朋文堂オリジナル初版と、つい最近購入(なんと定価で!)した四季書館の50部特装限定本と、中公文庫BIBLIO版。この3冊はまったく別モノと言ってもいいほど異なった内容になっている。「山の本はオリジナル初版こそがベスト。まして文庫本などは論外!」だと、ずっと勝手に思い込んでいたが、『新編・風雪のビヴァーク』や『屏風岩登攀記』のようにバージョンアップされていたりする本もあるので、後版も要チェックのようです。
昭和34年出版の朋文堂初版は安川茂雄がプロデュース。装丁は著者。本文の使用原紙の配慮(第一部と第二部とでは紙を変えている)など細部にまでセンスの良さを感じます。表紙も含めて、もっとも雰囲気のあるの版。
四季書館の50部特装限定本(23番/50部の内)は、「ゴンベーと雪崩」「長塀山」など新たに10編を加えた二見書房版山岳名著シリーズを底本とした500部の特装限定本のうちの、さらに50部の特製限定版。こちらも安川茂雄プロデュースによる。著者がすべての絵に肉筆水彩で着色し(ルート図にまで!)、多くのイラストを加え、一葉の水彩画を貼り、皮のカバーを掛け、二重箱に入れられたサービス精神満載の凝りに凝った豪華本。これはスゴい。画家として著者の強いこだわりを感じる。芳野ファンはもちろん、山の本好きにはたまらない1冊。
中公文庫版『新編 山靴の音』は、詩や画文を大幅に削り、「ヨーロッパアルプスへ」という章を追加。こちらは文庫本ならではの読み物を中心とした編集になっている。せっかくの自筆のルート図が味気の無い図版に差し替えられてしまったのは残念だが、これも文庫版ならではのこだわりだろう。
PS1;以降、2作目の『アルプスに賭ける 穂高からアイガーへ』(昭39/実業之日本社)や『新・山靴の音』(1992/東京新聞出版局)などは、アクの強い独特の“芳野ブシ”が増して、読み手として個人的にはとても苦手なのですが、『山靴の音』だけは別。10代から20代の頃に綴られたためか、処女出版のせいか丁寧に書かれていて、文章は瑞々しく、読後感はすがすがしい 。
PS2; 雑誌『山と高原№336』(1964.12/朋文堂)には、人物特集として芳野満彦が紹介されている。(ようやく入手できましたよ。)
6ページのグラビアを含めた26ページにわたる大特集。山川淳による評伝、吉尾弘や新田次郎らによる人物評、「芳野満彦を語る」。「アイガーに賭ける」と題した座談会、30の質問などで構成されていて、芳野満彦の魅力を存分に知ることができる好企画です。
ちなみに、340号の寺田甲子男、344号の吉尾弘とともに、非常に内容が濃く、貴重な1冊。
PS3;「50部限定本の謎」
その後、神田の悠久堂で件の50部特装本をもう1冊発見(48番/50部の内)した。そして、何気なく本を開いて驚いてしまった。巻頭の水彩画(これが素晴らしい!)もまったく違うものである上に、本文にはないイラストが数点、水彩・サインペンで書き加えられていたのです。
限定本とはいえ、これほど1冊づつが異なり、手の込んだ本は他には見たことがない。『山靴の音』は、著者にとってよほど思い入れの強いものだったことがわかります。
おそらく、他にも様々なバリエーションの『山靴の音』が存在するのかと思うと、氏のサービス精神や遊び心がうかがえてなんだかとても楽しくなってくるじゃないですか。
PS4;ついでに見つけたサイン本です。ここにも、サービス精神と遊び心がたっぷりな氏の魅力的な人柄が表れています。
『われ北壁に成功せり』(1966/実業之日本社)の見返しに書かれた署名。
筆ペンで書かれていることも珍しいが、クライマーのとぼけた顔のイラストが面白い。
『山靴の音』(昭34/朋文堂)の見返しに書かれた署名で、雑誌『岩と雪』編集長の岩間正夫氏に宛てたもの。
この他にも、先日覗いた阿佐ヶ谷の穂高書房では、アルムクラブ時代(おそらく20歳前後の頃)の芳野満彦による直筆の書き込みがある本(『星と嵐』ガストン・レビファ)を勧められた。後年に日本人としては初めてマッターホルン北壁登攀に成功することになる氏が、若かりし日に夢見るように何度も読んだものだろう。本のダメージがかなり残念な状態だったのでその時は買わなかったけど、あれはお宝だったのでしょうか。
穂高書房、店主の和久井さん
「どもども、はい~ハィ。わざわざ来てもらってもネ、目新しいのは何も無いよ。もう欲しい本はみんな持ってるでしょ?」と言いつつも、店の奥にはとんでもないお宝を隠し持っているかも…。
コメント
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